2013年3月24日日曜日

佃島



月島にもんじゃ焼きを食いに来たついでに、佃島界隈を散策であるのである。

佃島とは東京都中央区南東部、隅田(すみだ)川左岸にある旧地区名であるのである。

現在は佃1丁目が正式名で、現在の佃2丁目旧石川島にあたるのであるのである。

佃島は隅田川が晴海(はるみ)運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州からなる島であったが、その後の埋立てで、北の石川島、南の月島と地続きになったのであるのである。

この地はかつては名もなき小島であったつーことであるが、江戸初期、かの徳川家康との縁故によって、摂津(大阪府)西成郡佃村の名主の孫右衛門(まごえもん)てなお人が漁夫30余名を連れて移住し、郷里の名である佃を島名としたのであるつーよーなことであるのであるが、あたしが見たわけではないのでもちろん聞きかじりであるのである。

将軍家献上のシラウオや諸侯に納めた魚類の残りの雑魚(ざこ)を味つけして煮つめたのがお馴染みの佃煮で、江戸名物として現在に至っているつーことであるのである。

それで、まあ、あたしは子供の頃から佃島には佃煮屋が棟を並べて賑わってるのかと思っていたのであるが、それがすっからかんで、どこに佃煮屋があるのかもわからないてな風景であるのである。

佃島といえば、江戸の下町情緒を残した風情風景の町並みという印象があるわけであるが、これが、月島同様にどんどん近代的な高層マンションが立ち並んで、どこに下町情緒があるのかてな悲しい状況が目の前に展開されて、あたしゃ心がこよなくびっくりねであるのである。

まあ、それでも、隅田川からの引き込みには釣り船が数隻係留してあり、船宿てな看板もあったりして、もしかするとこれが情報喧伝されている今も残る江戸の下町情緒であるのかもしれないということを理解したのである。

もちろん写真は下町情緒中心であるのである。

まあ、それで、その残り少ない下町情緒と高層マンションの間をうろうろこれでもかと歩きまわって佃煮屋を探しても見つからないのである。

それで、通りがかった様子のいい粋なおばさまに「佃煮屋が並んでるのはどのへんでしょうか?」と聞いたら「あっちの方ですよ」というので、指差す方角に怒涛の進軍で歩を進めてその付近にご到着遊ばしたらば、佃煮丸久、天安本店、佃源田中屋てな3軒の佃煮屋さんがあるだけであるのである。

これも残り少ない佃島の佃煮屋であるのか、最初からこの3軒であるのかは定かで無いのであるが、まあ、とにかく、おみやげの佃煮を買いましょうとゆーことで、ア・タ・シ的にはいちばんそれらしい雰囲気の天安本店でアミとイカとオカカと昆布とエビと雑魚の佃煮の詰め合わせを買ったのであるが、写真が包装紙のビニールの反射でへっぽこになってしまったのである。



つーことで大変美味しゅうございましたのである。

象さんのご飯かよ。

Camera:GalaxyⅢα
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月21日木曜日

月島西中通り商店街



東京都中央区の月島(つきしま)である。

いきなり思いつきでもんじゃ焼きが食いたくなって、東京メトロに乗ってわざわざ月島までお越しになったのである。

これ、おそらくなんかの旅番組でタレントが月島のもんじゃを食ってたのが脳裏にあって、いきなり食いたくなったんだろうと思うのであるが、あたしの思いつきはだいたい仕事をしながらつけっぱなしのテレビからの影響であるのである。

月島は中央区沿岸部、月島1号地にあたり、月島2・3号地は勝どき、月島4号地は晴海にあたり、現在は月島の町域外になるつーことであるのである。

1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」てな計画に基づき、東京湾から浚渫(しゅんせつ)した土砂を利用して埋め立てられ、1号地(現 月島)として佃島から先の砂州を埋め立て、続いて27年に2号地(現 勝どき)、29年に新佃島(現 佃2 ・ 3丁目)が完成したつーよーなことであるのである。

埋立当時の月島や新佃島周辺は殖産興国という国策に沿い重工業地帯とされ、隣接した石川島造船所に関連した鉄工所が多く造られ、工場、商店が多かったつーことで、下町の印象が強かったのであるが、実際に行ってみると現在ではあちこちに高層マンションが立ち並び、下町の風景はどんどん過去のものとなっているてな感じであるのである。

月島の地名はかつて東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたてなことであるが、もちろんそれが現在の月島のどこであるのかは定かでないのである。

ご存知の通り、月島もんじゃてなことで、月島はもんじゃ焼きが有名であるのである。

東京メトロ月島駅の7番出口から出てすぐの月島西仲通り商店街には70軒以上のもんじゃ焼きの看板やのれんを出した店が軒を連ねているのであるのである。

もうこれがびっくりするような、よくできた長い商店街で、まあ、行けども行けどももんじゃ焼きの店が並んでいるのである。

「ううむ、今日は休日つーこともあると思うが商店街の道路は歩行者天国になってるし、なかなか商店街各振興会の皆さんの息が合ってうまくできてるではないか、けっこうけっこう、町おこしはこーでなくてはいけませんよ」

てな、まったくの思いつきで来たわりには上から目線であれこれあら探しをしながらあちこちうろうろして、善光寺別院月島開運観音堂にお参りしてお礼よいしょの言の葉をこれでもかと咆哮して、通りがかりの店でもんじゃを食ってビールを飲んで、もんじゃを食ったら胃が刺激されてさらに腹がへったので帰りにでかいメロンパンを買って食ったのである。

まあ、時は移り人は集まり流れ街は変わり時代は休みなく変遷するわけであるが、あたしはその時間の中にほんの一瞬に存在する閃光であるのである。

いや、なんか書かないと尺が埋まらんから。

Camera:GalaxyⅢα
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月19日火曜日

東伏見稲荷神社の狐



神の写真である。

東伏見稲荷神社の狐であるのである。

東伏見稲荷神社(ひがしふしみいなりじんじゃ)は東京都西東京市に鎮座する神社であるのである。

京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して昭和4年(1929年)に創建されたのであるのである。

主祭神として伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の三柱を勧請し、この三座を「東伏見稲荷大神」と総称しているのであるのである。

稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つで、稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんとも呼ばれるのである。

稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社とされており、元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家であるつーことであるのである。

稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であるのである。

また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、あたしの祟り神兼守り神である豊川稲荷の妙厳寺(みょうごんじ)を代表とする仏教寺院でも祀られるのである。

それで、この東伏見稲荷神社の小塚参拝道には無数の赤い鳥居があり、無数の赤い前掛けをした狐がいるのである。

行けども行けども赤い鳥居と赤い前掛けの狐がいるのである。

狐は古来より日本人にとって神聖視されてきたのである。

それは、狐が日本人の主食としての米を食い荒らすネズミを食う存在として神聖化されたことによるつー説があるのであるが、これは蛇の神聖視も同様であるのである。

秦伊呂巨(具)(はたのいろこ(ぐ))が和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てたことにより、最初の稲荷神が登場するのである。 

東伏見稲荷の主祭神の一柱でもある宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言うのである。

狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まったのである。 

時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになったつーことであるのである。 

江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がったつーよーなことであるのである。

またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。

また仏教の荼枳尼天(だきにてん)は、日本では狐に乗るとされ、稲荷神と習合されるようになったのである。

稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)であるのである。

稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多いのである。

東伏見稲荷神社の場合は左の狐が鍵をくわえているのであるが、伏見稲荷大社発行の「稲荷の信仰」の「玉鍵の信仰」という一項によれば、玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵は「そのみたまを、身につけようとする願望の象です」と書かれているつーことであるのであるが、実際には前述のように狐が倉に収めた米を食い荒らすネズミを食うことから転じて、宝である米を守る倉の鍵を持つ守り神てな意味あいであると解釈するのが妥当であるつーのがあたしの神からのお告げであるのである。

まあ、何にしても狛犬ではなく狛狐かもしれないのであるが、呼び名については定かではないのである。

他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げ(狐の好物ともされるが、狐は肉食であり油揚げが好物なわけではない)が供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷とも称するようになったつーことであるのである。

つーことで、小塚参拝道の狐の皆さんをこれでもかと霊写して、そのみたまをあたしの体内に呼び込めば、あたしの波動はこよなく至高の彼方天上に駆け上がり稲荷大神の身元足元に顔をひれ伏す仕儀と相成るわけである。

意味がわからない?

神のお告げであるから、意味なんか考えたらバチが当たるのである。

稲荷は祟り神でもあるのである。

あたしゃ豊川稲荷の神罰でとんでもない目にあったので、あまりいじると怖いので当たらず障らずでこのへんで退散するのである。

某霊能者と言い張るぱーの人に「あんたは霊障にこよなく強いやおまへんか」と喝破された天下の大霊能香具師祈祷師象師匠も稲荷神の祟りの威力にはまったく敵わないのであるから、あんたらシロートはんが舐めたりすると命にかかわる大事にならんともかぎらへんのは言うまでもないことおまえへんかであるのである。

怖いでんなー、おっとろしでんなー。

ううう、頭が痛くなってきた。

ああ、珈琲が切れたのね。

Camera:LUMIX DMC-FH6
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月16日土曜日

東京駅



東京駅であるのである。

東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅であるのである。

ご存知のとおり、赤レンガ駅舎が復原された東京駅は2012年10月1日に全面再開業したのであるのである。

また、復原工事に伴って2006年(平成18年)4月から営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」(東日本鉄道文化財団運営)も全面再開業と同日に拡大再開業し、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」も規模を拡大して再開業したのであるから一度はお泊りしてみたいもんであるのであるが、あたしゃ東京にお住まいであるのでおそらく一生お泊りはしないのである。

東京駅はその名のとおり東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する巨大駅であるのであるのである。

元々の赤レンガ造りの丸の内口駅舎は、設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定され、「関東の駅百選」認定駅でもあるつーことであるのであるが、日本で百選ならともかく、関東で百選は多すぎるんじゃなかろうかと思うのはあたしだけかねと思うが大きなお世話であるのはいうまでもないことであるのである。

かつての丸の内側の赤レンガ本駅舎は1945年5月25日の東京大空襲によりその多くが破壊焼失したため、その後応急処置的に修復され、そのまま60数年を経過したのであるが、その後あれこれの経緯を経て、1988年に政府は学識者の委員会による東京駅周辺地区再開発構想を取りまとめ、JR東日本などが主体となって、赤レンガ駅舎の駅舎を本来の姿に近い形態に復原するなどを内容とした当駅周辺の大規模な再開発事業が行われることとなったつーよーなことであるのである。

その皮切りとして2007年3月に日本橋口に「サピアタワー」てなお名前の超高層ビルが竣工し、これと同時に一連の再開発地区が「Tokyo Station City(東京ステーションシティ)」と命名され、「東京駅が、街になる。」てなキャッチコピーが採用され、キャッチフレーズとなったのである。

2010年3月28日には、駅改札内1階「South Court(サウスコート)」にあったエキナカ商業施設の「Dila東京メディアコート」の跡地に、JR東日本ステーションリテイリングが運営する「エキュート東京」がオープンし、4月12日には赤レンガ駅舎から皇居まで一直線に続く行幸通りが再整備された上で開通したのであるのである。

さらに同年12月4日には、駅改札内1階「North Court(ノースコート)」にあったエキナカ商業施設の「Dila東京ダイニングコート」の跡地に、鉄道会館が運営する「グランスタ ダイニング」がオープンしたつーよーな経過であるのである。

てなことで、あたしは東京に住んでいながら、いわゆる灯台下暗しつーのが正しいのかどーかはなんであるが、まあ、とにかく復元されてからの東京駅に行ったことがなかったので、物見遊山観光に行ってみたわけである。

まあ、この東京駅のエキナカ商業施設をテレビで取り上げると、以前とは一変した巨大ショッピングモールのような趣であったので、この横長の赤レンガの建物の全部が売り場やレストランかと思ったら、2階以上の部分はほとんどが東京ステーションホテルであるのである。

東京駅改装後に営業を再開した東京ステーションホテルは休館前に約50室だった客室が150室と3倍に増え、ラグジュアリーホテルとして質も大きく向上した。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の三階部分の大半とと四階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っているつーよーな大ホテルになっているのである。

それで、実際に行ってみたらば、赤レンガの東京駅の外観はほとんどが東京ステーションホテルであって、巨大ショッピングモールではないつーことをよーくご理解遊ばしたわけである。

テレビの映像てなものはそのカメラのカット割りアングルに入る部分以外は映らないので、全体の様子がわかるかつーとそうでもないつーことが改めて認識認知把握なされるわけである。

それで、エキナカ改札内の商業施設は1階のかつてのノースコートやサウスコートやセントラルストリートや京葉ストリートや地下1階のグランスタてなことでこじんまりとしたコーナーを作ってあるだけで、想像とはだいぶ違っていて、あららんと思ったのであるが、考えてみれば基本があくまでも鉄道の駅であるから当たり前っちゃ当たり前であるのである。

しかし、エキナカ改札外も含めればTokyo Station Cityつーことでグラングルメだの大丸であるグランドトウキョウノースタワーだのグランドトウキョウサウスタワーだの前述のサピアタワーだのてな商業施設があちこちにあるのである。

まあ、ショッピング好きでお暇な人はそうとうに楽しめるわけであるが、あたしゃショッピング好きでもないし、そんなにお暇でもないので、入場券をお買いになってエキナカ改札内を中心にご観光ご見学ご観賞遊ばしたたわけである。

まあ、動画冒頭で新丸の内ビル前の横断歩道から東京駅まで歩いてる間に終始カチカチ音がしてるのは、動画を撮影したスマホにつけたストラップの金属部分が当たってる音であるのであって、べつに東京駅周辺の地縛霊がスマホにお憑きになったわけではないのはいうまでもないことであるのであるということを一応解説しておくのであるが、これを蛇足といわずして何というのかあたしにも何が何してなんとやらであるのである。

Camera:GalaxyⅢα
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月11日月曜日

東京宝塚劇場の赤い絨毯



東京宝塚劇場(とうきょう たからづか げきじょう)であるのである。

東京宝塚劇場は、東京都千代田区有楽町にある東京宝塚ビルの1~6階部分にある劇場で、ご存知のとおり兵庫県宝塚市に本拠地を置く宝塚歌劇団の東京での拠点本拠地つーことであるのである。

現在の劇場の全身である旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に現在の東京宝塚劇場として新築リニューアルオープンしたのであるつーことであるのである。

2011年3月3日、2001年1月1日のリニューアルオープン以来の来場者数が1000万人を達成し、記念セレモニーが執り行われた。リニューアルオープンから10年間の通算公演回数は約4800回、通算客席稼働率は100%以上とい大繁盛の営業成績となっているつーことであるのであるが現在の稼働率がどうなのかは定かではないのである。

建替え前の旧劇場は東宝直営で、商業演劇、歌手芝居、ミュージカル等、東宝演劇の中心地として機能しており、本来メインとなる宝塚歌劇は年数回(改築前数年間は年7ヵ月)の公演だったのである。

ご記憶の方がおられるかどうかはわからんのであるが、旧劇場は956、57、59、61~72年はNHK紅白歌合戦の会場としても使用され、またマリオ・デル=モナコとティート・ゴッビの共演で知られる第2回NHKイタリア歌劇団での『オテロ』の公演もここで行われたのであるつーことであるが、タカラヅカに興味のない向きにはなんのこっちゃと思われる人もおられるのはいたしかたのないことであるのである。

なお、旧劇場の五階の小劇場では演芸の「東宝名人会」が常時催され、戦後に東宝演芸場と改称され、選りすぐられた寄席芸人を一堂に揃えた東京演芸界の殿堂であったのであるが、1980年8月に閉鎖され、代わりに再開発による有楽町の日本劇場の解体に伴い、日劇ミュージックホールが移転したこともあったのであるのである。

以上は、旧東京宝塚劇場の話であるので、現在の劇場に行ってもまことに残念ながら日劇ミュージックホールのレヴューはやってないのである。

建替え後、東宝は大家の立場に回り、阪急電鉄に賃貸され名実共に「東京における宝塚歌劇団の専用劇場」として再出発を図ることとなり、宝塚歌劇団の公演を目的としているため、舞台のサイズ、設備等のシステムは、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と同等になっているのである。

ちなみに客席数ではこちらが約500席少くなっているのであるのである。

改築に当たり、支配人には元花組トップスターの甲にしきこと小川甲子が起用され、宝塚大劇場・東京宝塚劇場ともにその管理・運営・製作は、阪急電鉄より分社化した宝塚舞台が行っているのであるのであるつーことであるのである。

宝塚歌劇団は1914年に初の公演を行って以来、今日も人気を集める未婚の女性だけで構成された歌劇団であり、現在は花(はな)・月(つき)・雪(ゆき)・星(ほし)・宙(そら)の5組と、いずれの組にも所属しない専科に分かれているのであるが、この日の公演は星組だったのか月組だったのかさっぱり覚えていないのである。

それじゃ何しにいったのかつーと、まあ、この世のものはできうる限り一度は見るという象源流人生コンセプトにのっとり、まだタカラヅカなるものをテレビ番組では見たことがあるが、生舞台公演を見たことがなかったからであるのだる。

宝塚歌劇団は創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になったのである。

つまりレヴューという用語が日本に敷衍したのは、1913年に発足した宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)がグランド・レヴュウの名のもとに歌や踊りを演じたのが起源であるわけであるのである。

現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、芝居(ミュージカル)やレヴューを上演し続けており、ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたるのであるのである。

まあ、つーよーなことであるのが、とにもかくにも、タカラヅカであるのである。

タカラヅカといえばあたしみたいな門外漢にはなんといっても池田センセーのベルバラ、アンドレ、オスカルであるが、本日はベルバラではないのである。

じゃあ、なんの公演だと言われても、前述のとおり覚えてないのである。

えーと、大昔のヨーロッパのどこかの国の旅芝居の役者と宮廷のお姫様と王子様が出てきて学芸会みたいなお芝居を見せられて死にそうになったのは覚えているのであるが、ううう、ストーリーも覚えてないのである。

そんなことでいいのかと言われても覚えてないんだからしょーがねーじゃんと居直るわけである。

それで、もちろん最後までご鑑賞なさって、夕食晩餐の運びとなって、外に出たら、1月真冬の寒風吹きすさぶ入り口ファサードの周囲にすごい数の女性の皆さんが黒山の人だかりであるのである。

これ、つまり出待ちであるのであるが、あたしは腹がへってたので出待ちはご遠慮申し上げてメシ食いに行ったのである。

Camera:LUMIX DMC-FH6
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月7日木曜日

築地場外市場



築地場外市場であるのである。

築地市場(つきじいちば、つきじしじょう)とは、東京都中央区築地にある公設の卸売市場で、東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場のひとつであるが、その取引規模金額は日本はおろか世界最大であり、代表的な卸売市場であるのである。

市場を「いちば」と呼ぶか「しじょう」と呼ぶかつーことについては、ニュース番組等でしばしば築地市場の場所を指して「つきじしじょう」と呼ばれ、また、築地場外市場の公式ホームページのEnglish版でも「The Tsukiji Outer Market, known as the Jogai Shijo, is Japan’s “Food Town,” where one can encounter all of Japan’s traditional foods.」とおっしゃってるので、しじょうでいいつーことであるわけである。

築地市場の周辺には買出人を相手とする店舗が多数あり、「場外」と呼ばれる商店街を形成しており、新大橋通りと晴海通りとの交差点から市場にかけての地域がそれにあたり、今回のネタの築地場外市場であるのである。

これに対して築地市場は「場内」と呼ばれ、場外は場内に比べ一般客や観光客が比較的多い。

あたしはもちろんその一般客で観光客の1人であるわけである。

この日は休日であったので、ものすごい大混雑を予想して行ったのであるが、案に相違して閑散としていて、シャッターを下ろしてる店も多々あるのである。

これは考えてみれば、築地市場がお休みであるので、場内の業者買出人の皆さんや一般の見学客や購買客の皆さんがおられないため、基本的にお休みで、場外の海鮮料理の食堂を目当ての観光客だけであるせいであるわけである。

まあ、それでも、人気の食堂周辺は大賑わいで、まだ1月の寒風吹きすさぶ中、老若男女ご家族連れがテラス席で海鮮丼なんかをお召し上がりになってご満悦であるのである。

これ、意外だったのは中高年熟年老年家族連れに混じってうら若いおねーさん方やおデートとみられる男女がけっこうおられるつーことである。

やっぱり、昨今のテレビ番組に頻繁に取り上げられることが多いので、魚河岸市場に興味があるとは思えないおねーさんおにーさん方にもレジャースポットデートスポットとして認知されてるつーことであるわけであるなあ。

まあ、実際に来てみると、この場外では海鮮料理の食堂以外では、動画にも映ってるテリーさんのおにーさんの玉子焼き屋さんや、まぐろや干物などの海産物の販売店ぐらいしかないので、おねーさん方に何が面白いのかわからんのであるが、それでも、路上の椅子に座って、浜焼きなんかを食べて大喜びであるのである。

ああ、なるほど、これ、お祭りやイベントの屋台でなんか食ってるのと同じであるわけである。

そら楽しいわけだ。

Camera:LUMIX DMC-FH6
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン 

2013年3月5日火曜日

築地本願寺成人式2013年



築地本願寺で行われた2013年度の成人式であるのである。

いやはや、華やかなお着物姿晴れ着姿のおねーさんたちがもう群れをなして本堂伽藍に匂い立つような光景は、美麗壮麗鮮麗な頬の色もなまめかしく、美美しい眩(まば)い風光明媚てなことでところ狭しとお集まりであるのである。

日本古来の振袖晴れ着には敵うものはないような世界無敵の派手やか艶やか絢爛豪華絢爛華麗のエネルギーであたしのあれもこれもあそこもここも天真爛漫天衣無縫に世界無敵のうきうきめきめきもきもきであるのである。

それに比して同様に成人式であるはずのおにーさん方の姿は影が薄くてどこにいるのやら、さっぱりであるのである。

おねーさんたちの華やか派手やか艶(あで)やかの晴れ姿に天下の日本男児男子男性おすおのこ野郎あんちゃんにーちゃんはなんか対抗策はないものかどうなのか、まあ、あたしが悩むことでもないが、鳥はオスのほうが綺麗なのが普通であるにのなんで人間はこんなにちがうのかてな鳥と比較してアホなこといっても詮方無いので、まあ、こんなところかね。

つーことで、これ、1月20日に撮影したものであるが、まあ、なんだ、いろいろ事情があって、遅れに遅れて今回のUPになったわけである。

もう、春の嵐もそここに到来する季節になって、成人式でもないのであるが、ううう、だめだ、珈琲珈琲。

ちゅーどくかお前は。

閑話休題てなことで話を戻して、まあ、この日本の成人式てなものはお着物業界にとっても一大イベントで、これがなくなったら、バレンタインがなくなったチョコレート業界どころじゃなくて、売上半減どころか業界自体がにっちもさっちもいかないおまんまの食い上げてな状態になるだろうねこれ。

しかし、この豪華華美を憂える野暮天の声をよそに、衰える気配は微塵もないのである。

まあ、昨今の女性は着物を着る機会てなものが激減して、冠婚葬祭でも洋装が当たり前であるので、一生に一回のお着物着付けになる方もおられるかもしれないのである。

しかし、この成人式の晴れ着晴れ姿のお写真てなものは、これがどーゆーわけか、あたしが今まで見せられたものはどのお嬢様ご息女ご令嬢娘さんもお笑いのネタになるぐらいおもしろおかしく撮れてしまっているのはどーゆーわけなんでしょうか。

あれ、写真屋さんが笑いをとるために、わざとおもしろいアングルでお撮りになってるとしか思えないのであるが、その写真を見せられて、もしクスっとでも笑ったら、そのご家族とは一生に渡ってお付き合いに支障が出るのはもちろんであるので、成人式のお写真を見るときは心を沈めて絶対に笑わないぞという一大決心のもとに敢行していただきたいということで、本日のご挨拶に代えさせていただきたいと存じます。

Camera:LUMIX DMC-FH6
にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン