気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年2月27日日曜日
浅草|浅草寺と大黒家
昨日の浅草雷門中店裏通りに続いて、浅草寺を中心に浅草の風景であるのである。
まあ、浅草寺は泥に埋まっていた小さな観音さんがご本尊で、その霊験あらたかなること著しく、この大繁盛となったわけである。
なにしろ日本全国はおろか世界中がら人が押し寄せるので、おまわりさんも忙しいのである。
雷門の大門の提灯である。
かの松下幸之助翁の寄贈であるのである。
さすがは翁である。
こんなところにも宣伝をかかさないのであるから、無駄金は使わないのであるなあと無駄金ばかり使うあたしは深く反省したのである。
しかし、これ、いくらぐらいなんでしょうか。
あたしも寄贈できるんでしょうか。
この名札のところに、「象師匠」と入るわけである。
象気功ファンは大笑いできるのである。
ものすごい無駄金であるのである。
宝蔵門付近である。
ううむ、さりげないスカイツリーでなかなか秀逸な写真になっているのである。
新しい浅草名所が増えて、さらに浅草は人が押し寄せているのである。
本堂前はこのとおりの大騒ぎであるのである。
いいね、なかなか躍動感のある写真である。
水準器だのなんだのいってるとこーゆー活き活きとした写真はとれないのである。
まあ、なんに効くのかは定かではないのであるが、皆さんで線香の煙を頭にかけたりしているのである。
本堂の屋根である。
だからなんだといわれても、本堂の屋根である。
さすがにこのへんで6800円のEXILIM EX Z-330の限界が見えるわけであるが、そこはそれ霊能写真家象師匠の霊能力でなんとかするわけである。
その霊能力でなんとかした写真であるのである。
色合いといい、人との対比といい、豪快なちょうちんの大きさを表現しているわけである。
続いてもう一枚、霊能力でなんとかしようと思った写真である。
ううむ、いいね、背景のかすみ具合が、こう、なんともいえない雰囲気を醸し出しているのである。
つーことで、浅草寺さんのお参りをすませて、界隈を散策したのである。
宮田レコードさんである。
このなんともいえない色褪(あ)せたノスタルジックな情景が心の奥底に沁(し)み込んでくるのである。
浅草はやっぱりこの1枚かね。
川中さんもショーケースの中で黄色くなってお出迎えであるのである。
大黒家さんであるのである。
どうであろうか、この色合いと構図とコントラスト。
霊能写真家象師匠の霊能力爆発の見事な1枚であるのである。
誰も褒めてくれないので自分でこれでもかと褒めてよろしい脳内ホルモンの放出を促すのである。
気功の極意は気持ちよくなることであるのである。
そんなことはともかく、大黒家さんは天麩羅(てんぷら)の老舗であるのである。
だいぶ前に来たときは、昼時だったせいなのか、テレビで放映されたせいなのか、店の前にはおねーちゃんおにーちゃんが延々並んでいて、並ぶのが大っきらいなあたしは、すぐあきらめて、すき焼きを食ったのである。
でも、今日は夕暮れなので、別に誰も並んでいないし、店内はがらがらであるのである。
さすがに浅草は被写体にことかかないのである。
ただお茶がでてきただけでもこれである。
霊能写真家象師匠の本領発揮の一枚であるのである。
テーブルの水滴まで芸術になるではありませんか。
これをでかい一眼レフを構えて写してると異様であるが、手のひらに隠れるようなコンデジだとこれ、自由自在に撮れるのである。
まあ、そうはいっても高級一眼であれば基本的な写真の知識があれば誰が撮ってもある程度はカメラが芸術にしてくれるのであるが、へっぽこのコンデジでは、基本なんか押さえて撮った日にゃ大マヌケな写真になるのである。
さらに霊能の一枚であるのである。
ぼけているのではないのである。
光の柔らかさで浅草の老舗の、時代を窺わせる雰囲気を表現しているわけである。
ノイズなんかどーでもいいのである。
写真はノイズも含めての瞬間芸術であるのである。
言いたい放題であるのである。
さて、つーことで、スカイツリーも鮮やかに、夕暮れ時の地下鉄浅草駅前の交差点付近の様子を写した一枚である。
いやー、しかしシャレにならないぐらいうまいねどうも。
カップルのようすもよろしいじゃございませんか。
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2011年2月26日土曜日
浅草|仲見世の裏通り
神は庶民の中にあるのである。
高貴な者に神が降りると思うのは錯覚であるのである。
あなたもこの写真の中に神の喜びを見るはずであるのである。
店の商品を品定めする女性たちの表情や、それを見守る男性の表情は、人生にこれ以上に幸せな時間はないというぐらいの穏やかな表情であるのである。
神は今まさに、そこ降臨されておらるのである。
つーことで、浅草雷門の中店のすぐ裏の通りである。
まるでプロの大家の写真集の中の1枚のような、見事な写真であるのである。
まあ、こーいっちゃなんであるが、トイカメラに近い6800円のEXILIM EX Z-330で写したとは思えないように、浅草の裏通りの情景を見事に写しだしておられるではありませんか。
夕暮れ時の光の弱い時間でも、あたしがシャッターを切るとこのとおりの写りであるのである。
天才とはこのように筆を選ばないわけである。
むふふふ、自分自身の才能が怖い。
どーでもいいことはなんでも言えるのである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月25日金曜日
ダッシュボード
人間に文明の恩恵を実感させるものの代表が自動車であるのである。
この自動車によって、それ以前とそれ以後では、生活が劇的に変化してしまったのである。
その後にさらに人間の生活に激変を与えたものがコンピューターであるのである。
すべては神の思し召しであるわけであるが、その神の恩寵のシンボルがこのダッシュボードにあるのである。
この神の恩寵に何を見るかは、その人のそれぞれの霊格によってさまざまであるのである。
つーことで、どうだろうか、この写りは。
なかなかのもんではありませんか。
まあ、このへっぽこのEXILIMで、しかも手持ちでこのぐらい写るのであるから、まあ、あたしの才能といってしまえばそれまでであるが、なんでもないダッシュボードの片隅がシャッターにより芸術になる瞬間であるのである。
十分に自画自賛して、上機嫌になったところで、メシの時間であるのである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月23日水曜日
明治座の天井
神の光が降りる現代の格天井であるのある。
見上げればそこに天の国があり、そこから神は地上にいるアリのごとき我々に無慈悲な思し召しを成就されるわけである。
我々はそれをありがたく享受し、カルマを刈り取るのである。
このEXILIM EX Z-330はコンデジの代表みたいなカメラで、超小型で電池とSDHCメモリーカードを除くとちょうど100gてな重さであるので、もちろんカメラとしての機能に期待してはいけないのであるが、発色とともにこのシャープなピントでなかなか香ばしい写真になるのである。
超小型とはいえ1210万画素の効果はさすがで、画像をズームしてもどこまでもそれなりに写ってるのである。
もちろん、高級一眼レフのデジカメで撮れるダイナミックな色合いやフォーカスはぜんぜん無理であるが、ちょっと線の細い写りが面白いっちゃ面白いのである。
今日、価格.comのデジカメの画質ランキングでこのEXILIM EX Z-330が数々の名機にならんで12位にランクされているのである。
先日は19万7000円のLEICA X1よりも上になっていたので、つまりは価格と画質のとコストパフォーマンスてなことだろうと思うが、まあ、6800円でこの写りであるから、ものすごくお得なカメラではあるのである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月21日月曜日
明治座のテーブル
Tableとは食卓のことであるのである。
食卓は祭壇である。
神への供物を置く場所である。
神への供物とは人間が食するものである。
神とは人間のその内なるものであるからである。
祭壇であるから、神聖でなければならないのである。
あだやおろそかに不浄のものを置いたりすると、そこは神の場所ではなくなるのである。
何も無いということが即ち清浄であるということであるのである。
清浄な場所に食を供え、神であるあなたの肉と成すのである。
生命の基である食の想念が集まる場であるから、テーブルは祭壇となり神の社(やしろ)としての波動を生み出しそれを受ける者の内なる神はその波動に共振するのである。
つーことで、このテーブルは「象のご飯」でも取り上げた、明治座の会場の入り口の前のソファのテーブルであるのである。
観覧者が会場に入る前に腹ごしらえしたりするためのテーブルであるのである。
あたしはこの祭壇に赤ワインとアイスクリームをお供えしたのである。
神の社(やしろ)は、かくのごとく赤がよろしいのである。
まあ、このEXILIMはコンセプトが携帯に便利てなことで、写りを気にしていないコンパクトデジカメであるので、写りは四苦八苦であるのであるが、唯一、発色がなかなかおもしろいので、なにげないこのようなテーブルも、フロアの絨毯とコラボするとこのような色合いになるわけである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月19日土曜日
花屋の店頭
花である。
生命の息吹(いぶき)である。
花はこの時期を迎えるためにこの世に存在するのである。
花開くというとおり、花が開くのは生命力の象徴であるのである。
人も花開くためにこの世に生まれ生きるのである。
なぜ神は花を人の目にこのように鮮やかに映るようにお作りになられたのか。
花は色も含めてその形そのものが波動を生み影響を与えるのである。
その波動を得るために人は花を好み慈しむのである。
総てはこの世宇宙の成就のためであるのである。
つーことで、昨日、仕事で通りかかった花屋さんの店頭の風景であるのである。
まだ、2月であるのに、花屋さんの店頭は春真っ盛りであるのである。
あたしのおつむも年がら年中、春真っ盛りであるのである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月18日金曜日
2011年2月17日木曜日
役所の窓
昨日、某市役所に仕事上の用事で行ったついでに撮った写真である。
市役所の窓からの無粋な冬景色も象師匠の霊能をもってすればこうなるわけである。
まあ、それはともかく、コントラストがもう少し強いと、さらによくなるとは思うのであるが、なにしろものが6800円のコンデジであるから、これ以上はどうにもならないわけである。
まあ、写真は構図だけではその良否が決まらないわけであるのであるが、その良否を分ける一端がレンズとカメラの機能によるわけである。
さらに、デジタルになって、画素数ということも大きな要素になってくるわけである。
しかし、まあ、このカメラでも1210万画素であるので、PCでUPするということであれば、まあ、ノートPCなどで見るにはこれ以上大きくても意味がないわけであるが、それでも小さいファイルサイズであるとなんとなく情けない写真になるので、12MBで撮るわけである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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2011年2月13日日曜日
人形
人形である。
これは実は親戚に人形を作るのが趣味のおばさんがいて、そのおばさん制作のものであるのである。
この他にもいろいろあるので、そのうち写真にするのであるが、まあ、このへんがいちばん写真になりやすいと思うのでこれにしたのである。
まあ、古い人形であるので、古さを表現しようと思って、モノクロにしたのであるが、どうなんだろうか。
このそこはかとない悲しそうな顔がなんともいいのであるが、まあ、人によっては怖いかもしれないのである。
人形は、まあ、いってみれば布とワタで作った工芸品であるわけであるが、どうも、人間の形をしたもには魂が宿るなんてえことで、擬人化して、なかなか粗末に扱えなくて、この人形もずーっとうちにいるわけである。
でもべつに髪の毛が伸びたり、瞬きしたり、夜中に踊りだしたりはしないのである。
ものすごく普通の人形であるのである。
まあ、写真は寄って寄ってまた寄ってというくらい寄ってもまーだ寄り足りないのであるが、接写てなことになるとまた違ったことになってしまうので、まあ、このへんが限界であるのである。
Camera : CASIO EXILIM EX Z-330
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